「ジーメス神父の思い出」

  米国戦略爆撃報告「広島と長崎への原爆投下の効果」の「広島」の項に、イエズス会の神父だったヨハンネス・ジーメス神父の目撃証言が出てくる。神父は広島の原爆当時、広島の北の郊外、長束(現在は広島市内)に居合わせ、市内のカトリック幟町教会にいた同僚たちの救出と手当にあたったほか、一般市民の救助と介護にもあたった。神父はその後上智大学の哲学の教授に就任し、東京へ転出した。同報告が個人名で証言を引用しているのはジーメス神父だけである。ジーメス神父の証言は、証言というより、よく読んでみると原爆を投下したばかりでなく、広島へ医療救助チームを派遣しないアメリカに対する激しい抗議のようにも読める。なお、筆者の西尾氏は現在岐阜県中津川市在住で、上智大学ではジーメス神父の教え子の一人だった。

スイスの猟師のような風貌

 私は敗戦後の1952年(昭和27年)、上智大学の哲学科3年生から2年間、ジーメスさんの哲学の講義を受けました。
 
 ヨーロッパ人・神父・哲学者というとどんな人物像をイメージしますか?
 
 おそらく、スラッとした、やや近寄りがたい、白皙、といったイメージが湧くのではないでしょうか。

 私は、ジーメスさんに出会ったとき先ず思ったのは、「スイスの山で熊を追っていた猟師みたい。」でした。

 ごつい体つき、お世辞笑いなどとは無関係な顔つき、黙ってこちらを見る眼、ゆったりとした動作など。

 私は、ボッシュ・タウンという、米軍払い下げのカマボコ兵舎でできた寮に住んでいました。中にいる者は感じないが、外からそのカマボコ型をしたブリキの外壁に触れると、漏電していて、ビリビリッとくるような建物の狭い部屋に、机と木とキャンバスでできた持ち運び用の折りたたみ式ベットを並べて2〜3人が同居していました。(1棟に20人あまり)
 
 その学生寮の隣にコンクリートのSJハウスという神父たちの住居、「司祭館」と呼んでいましたが、があり、ジーメスさんはその2階におられました。

 四谷のイグナチオ教会や近くにある雙葉学園の聖堂などへは、上智のイエズス会司祭がミサをあげに行かれていましたが、ジーメス神父がそこへ行かれたのを見た事はありません。SJハウス内にある小さな聖堂で、朝早く、侍者(ミサの手伝いをする人間)以外には誰もいないミサを挙げておられたと思います。


学生も及ばぬ頑健な体

 ところで登山で有名な八ヶ岳は、現在では「小屋ガ岳」と言われるほど沢山の山小屋があります。しかし、私が上智大学にいた50年代には、上智小屋以外にもう一つあったくらいでした。

 私は、山岳部に所属していたので、毎年夏には上智小屋で1週間ぐらいは泊まっていました。ある夏、私の他3、4名のいる小屋へジーメスさんがやってきました。
 
 彼より2本くらい後の列車で他の部員がやってきて話すのに、 
いまここへ来る途中で2人がへたり込んでいた。少し心配だが、いらぬおせっかいかと置いてきたけど。・・・彼らは松原湖の駅からジーメスと一緒だったらしい。ジーメスが『ここでひと泳ぎしてから登る』と、パンツで泳ぎだしたので、その若者たちも一緒に泳いだらしい。泳ぎ終わって、登りだすとジーメスはとっとといってしまう。渋の湯あたりではもうジーメスが見えなくなったので、あの男結構歳なのに元気だなあと言いながら追いかけたが、全然追いつけない。かなり泳いだんだろう。くたびれてしまって途中でへたり込んだと言っていた。まさか、俺の先生だとも言えず、置いてきたが。」

 ジーメスさんも、ドイツ人魂というか、山歩きは大好きでした。大きい体でも山林ではさっさと歩くのです。

 山小屋へ当時としては珍しい黒パンを持参、毎食、それを1cmくらいに切って、先ずその切れに手で十字を切って大事に食べていました。「これは、我輩の食事である」と学生にとられないよう釘を刺して。
 
 ジーメスさんは山岳部員などと行動を共にすることなく、一人で登山を楽しんでいました。朝、ミサを挙げ、黒パンを食べるとさっさと出かけ、夕方ひょっこりと帰ってきました。


熱い東京の銭湯が大好き

 ジーメスさんも他の神父と同じ黒い司祭服を着ておられるのですが、他の神父と全く違うのは、その、おなかの辺りがいつも汚れていることでした。SJハウスには洗濯をしてくださる人がいて、出しさえすれば、いつも清潔な服装でおられるのですが、ジーメスさんは着替えるのが面倒なのか、汚れたままの司祭服で堂々と歩いておられました。服装など一向に関心がなかったのでしょう。

 しかし、体については大変な清潔家で、毎日、石鹸箱とタオルを持って、歩いて4、5分の所にある銭湯の一番風呂へ入りに行かれていました。

 東京の銭湯の一番風呂は我々日本人でも、足先から少しずつ入らないと、とてもでない熱さです。
 
 ところがジーメスさんはヨーロッパ人には珍しく、その熱さが好きだったようです。もうもうたる湯気の中、顔を真っ赤にしてじっと動かずに首までつかっておられました。


黙って学生に冷水をザブっ

 ある日、授業が終わってすぐに、その銭湯に出かけた学生たちが、湯船にいるジーメスさんには全く気付かず、彼の噂話をしていたところ、十分に温まった神父が、手桶に冷水を一杯容れ、洗い場で話していた学生の後ろから黙ってザブッと浴びせかけ、一言もいわずに出て行かれました。

 たまたま、浴室に入ろうとしていた私は大笑い。それでも神父は知らん顔でした。

 彼はよく、上智大学の脇にあるお堀の土手を黙って歩いておられました。思索にふけるのには、そうしたそぞろ歩きがよかったのでしょう。

 自室でも椅子に腰掛けるということはありません。いつも立って、室内を歩きながら考えていました。書物は、背の高い、天板が斜めになった机の前に立ったままで読んでおられました。したがって、その部屋には椅子というものはありません。

 洋服ダンスとベッドと書架があるだけでした。

 私がジーメスさんに習った時代の上智は、上智の数え歌にあるように「1人の学生に7人の教授」そのもので、3年生の一般哲学科生は4人、しかも、そのうち2人は学士入学、すなわち他の大学の卒業生でした。

 1年生のドイツ語履修コースには40人ほどが居たのですが、2年生に上がれたのは約20人、それが3年生になれたのは10人。
 
 その10人が、独文学・新聞・哲学と分かれたので、下から上がったのは2人でした。


中央の席は遠慮の塊?

 1、2年生のドイツ語は時間数も多く、どんどん進むので、とにかく出席していないとついてゆけません。その代わり、3,4年生での哲学の講義はドイツ語だけでしたが、かなりよく分かりました。
 
 3年生だけではあまりにも少ないので、3、4年生を一緒にした授業でした。
それでも1回1クラス、7人くらい。寮外から来る生徒はよく休む人がいて、5人というのがいいところでした。

 小さな教室での授業でしたがそれでも20人ぐらいが座れる空間があるのですが学生は2列目か3列目の、しかも中央を避け、左右の席に座ります。その理由は、ジーメスさんはしゃべりだすと、熱心のあまり唾を飛ばし続けられるからなのです。
 
 ジーメスさんはそのことには気付かず、1列目中央部分の空席に向かって指差され、「ここは遠慮の塊である。」と、ご機嫌のよくない様子でした。


実は親切で誠実な人柄

 彼は生真面目というか、文語体というか、とにかく、「○○は□□である。」と話されました。慣れてしまうとなんでもないのですが、初対面の人などはちょっととっつきにくかったのではないでしょうか。がっちりした体格で、お世辞や愛嬌のない風貌ですから。

 じつは、親切で、非常にと言っていいほど誠実な人でした。

 哲学の授業で分からないところを、日本語で質問すると答えてくださいません。
ドイツ語で質問すると、先ずその質問の文法上の誤りを訂正し、その後で、内容については日本語で丁寧に、解説をしてくださいました。したがって、学生はいやでもドイツ語で話が出来るようになりました。

 講義が終わると毎時間、ジーメスさんは学生のその時間のノートを集めて持って行かれ、次の時間の始めに返却して下さいました。そこには内容についてのメモの誤り、ドイツ語の綴りの誤りだけでなく、漢字の誤りも皆、赤ペンで訂正してあります。

 おかしかったのは、彼は漢字について旧字体を習得しておられるので、新字体や略字は全部、画数の多い旧字体に直してあることでした。当時は丁度、旧字体から新字体への切り替えの直後でした。


学期末試験はドイツ語で口頭試問

 テキストはもちろんドイツ語で、日本ではあまり知られていない人の書いたものでした。

 1、2年生で哲学初歩はいくらか勉強していましたが、いきなり世界的名著など分かるわけのない我々には、やや高度ではあるが親切な現代哲学についての本でした。
 
 学年末になると成績を決めるためのテストがあります。ジーメスさんのテストはマン・ツー・マンの口頭試問です。毎時間ノートを見ておられるので、テストなどしないでも成績を出せる状態でもきちんと規則どおりに期末試験があったのです。

 私の場合は、テキストを持ってきたかどうか尋ねられた後、いきなり「あなたは○○点をもらった。それで満足するか?満足でないなら、チャンスを与える次の質問があるので答えよ。」と言われるのです。

 私は内心「ずいぶんいい点をくれたなア」と思っているので、「満足です。」と言うと、「部屋を出てよい」。
 
 ところが次に部屋に入った男はなかなか出て来ません。やっと出てきたので「長かったなー。いきなり点数を言われたのだろう」と聴くと、「いや、いろいろ質問したあとで、点数を言われた。難しかった。」 
 
 どうもジーメスさんは彼の弱点をよく知っていて、ほとんど1時間にわたって、口頭試問の形で彼にその箇所について解説をされたのではないかと思います。


一人でビール大瓶10本?

 ジーメスさんは、ご自分のすべきことをきちんと分類しておられました。神父ですから信仰の問題について習おうと、個人的に彼の部屋を訪ねたとき、私が質問すると、
  「それは哲学における問題ではない。信仰の問題である。あなたは○○神父から公教要理(カトリック信仰の入門の教え)を聴いているのである。私ではなく○○神父に話すべきである。」といわれたのを覚えています。
 
 たいていの神父さんなら、ご自分の考えを伝えてくださるのですが、ジーメスさんはそうはされなかった。私はジーメスさんの考えが聞きたかったのでがっかりして引き上げました。
 
 学生寮にある集会用の広間で、ジーメスさんとビールを飲んだ覚えがあります。その頃学生にビールなど高根の花でめったにお目にかかれる代物ではなかったのですが、たぶんクリスマスのお祝いに、進駐軍からの差し入れが回ってきたのでしょう。
 
 愉快に話しながら数時間が経ってみると、机の上に空ビンが20本くらい並んでいます。神父以外の学生は4人だったと思います。学生がいくら若くてよく呑むといってもせいぜい3本ぐらいでしょう。
 
 それ以上になると、お腹が膨れてもう入りません。皆トイレに立つでもなく平気で話していたので、ジーメスさんは10本(もちろん大瓶です)くらい呑んだことになります。
 
 そして普段と変わりない様子でした。「なるほど、あの太っ腹なら入るのかな」と感心した次第です。


知性も人格も「金」だった

 ジーメス神父はギムナジウム(ドイツの高等学校)時代、哲学の先生と議論をして、対立したままどちらも引かず、
 
 「二人のうちどちらかが学校を辞めるしかない。先生ではなく、生徒の自分が転校すべきだ」と学校を替わったことのある豪傑だ、と彼をよく知っている他の神父からうかがいました。
 
 それが事実であったかどうかは知りませんが、ソクラテスみたいに理性的に正しいと考えられないことは、決して承諾されなかったようです。かといって、決して不寛容と言うことではなく、ただ、常人にとっては頭のよすぎる人物だったと思います。
 
 若くても、ドイツではかなり有名な哲学者だよ、と聞いた覚えがあります。
 
 私が上智を卒業する翌年から、上智大学にも女子が入学できるようになりました。ジーメスさんは、個人的にですが、私にそっと、「女性も哲学をするのである。」と言われました。奇妙なことだと言わんばかりに。
 
 女性蔑視ではないのですが、どうも「本当に分かるのか? 続けられるのか?」という疑問があったのでしょう。私は「シモーヌ・ウェーユみたいな人もいますよ」と言いたかったのですが、黙っていました。ジーメスさんはドイツ人、しかも我々にとって先輩に当たる学者だから。このことが唯一ジーメスさんについて、私の疑問に思ったことです。
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 彼は無口な人でした。「沈黙は金」といいますが、その譬えの意味する所とはやや違いますが、真実を見る眼のあったジーメスさんはその知性も人格も「金」だったと思います。